カンフーハッスル(2004)
- ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- カンフーハッスル コレクターズ・エディション
監督・出演 : チャウ・シンチー
出演 : ユン・チウ、ユン・ワー、ドン・ジーホウ、シン・ユー、チウ・チーリン、ブルース・リャン
日曜日の夜は、よく彼と彼の親友の家に遊びに行って、映画を観るんだけど、
その彼の親友J君のコレクションの一つだった。
カンフー映画、と言われて、正直、「げっ」と思ったが、
映画が始まって数分、プロローグが終わる頃には、これは遠い昔に観たカンフー映画とはちょっと違うぞ、ということが伝わってくる。
当時はジャッキー・チェンの映画、結構好きだったんだけど。
面白い!
登場人物達は、絵に描いたようなコミカルでクセのあるキャラクターばかり。
演じている役者も曲者ぞろい。
映像もCGなどを使って、手を掛けてしっかり作りこんでいる感じがするし、
かつてのパターン化した真剣ヒーロー物からエンターテイメントなカンフー映画が出てくるとは、
中国映画界の発展のスピードとその質に目を見張る思いだ。
場面展開のテンポやスピードやコマワリ、画面の構成に、ものすごーく(日本の)漫画っぽいルーツを感じるんだけど、
この監督さん、漫画ファンなのかな?
数年前に話題になっていた少林サッカーの同じ監督の作品らしい。
ドイツでは公開されなかったから、観たことが無いんだけど、興味をそそられる。
ショコ・クロワッサン
日曜日の朝はショコ・クロワッサン
というのが、習慣化しつつある。
ショコ・クロワッサン(Schoko-Croissant、またはSchoko-Gipfel)とは、日本でもお馴染みの(?)チョコ・クロワッサンで、フランスのパン・オ・ショコラに似ている(形は違うけど)。
私はもともとショコ・クロワッサンが好きなんだけど、
美味しいショコ・クロワッサンってなかなか出会えない。
生地がやたらと厚くて、しかも乾いてボサボサだったり、
焼き上がった上からチョコレートが掛けてあるのは、見た目は良いけど手がドロドロになって食べにくい。
そういうのに限ってチョコレートが美味しくなかったりする。
生地がさくっとしていて、チョコレートがしっとりとしていて甘すぎず、チョコレートと生地のボリュームの比率が適当なショコ・クロワッサンが私の理想。
今までに、いくつもの街のパン屋を回った結果、
これは美味しい、と言えるのは1軒だけ。
そこ、チェーン店のパン屋なんだけど、なぜか他のお店は美味しくないのに、そこだけはイケるんだな。
そんな私のショコ・クロワッサンに掛ける情熱(?)を知っている彼が、
いつからか日曜日の朝に焼いてくれるようになった。
一番初めのチャレンジでは、スーパーで売っているクロワッサンのタネに、板チョコを包んで焼いてみた。
ちょっと奮発して、板チョコはカカオ80%のノアール(ってフラ語じゃん)を買ってみたんだけど、
これはいまいちだった。
敗因は、おそらくクロワッサンのタネが塩味だったことと、板チョコに甘味が足りないこと。
二度目のチャレンジでは、やっぱりスーパーで買ってきたパイ生地にチョコクリームを包んで焼いてみた。
たまたまスーパーにクロワッサンの生地が無かったから、パイ生地を買ってきただけだったんだけど、
これが大当たり。
それ以来、週末の買い物にパイ生地はお決まりで、家にはnutella(チョコ・ナッツ・クリーム)を常備している。
最近では、半分をショコ・クロワッサンに、半分はハムやコーン、チーズを巻いて、クロワッサンを焼いてくれる(っていうか、私も手伝うけど)。
ものすごーく手軽なのに(人に作ってもらっておいてそれはひどいかもしれない)、
すごーく美味しいし、毎回気分でいろんなアレンジが利くのも楽しい。
材料:
パイ生地 1枚
チョコクリーム
他、好みでコーン缶、ツナ缶、ハム、チーズなど
作り方:
①パイ生地を広げて、包丁で切る。まず適当な大きさの長方形に等分していき、それをさらに対角線で半分に切って、最終的には直角三角形にする。
②直角三角形の一番短い底辺の部分にチョコクリームや好みの具を置き、中身を包み込むように頂点に向かってクルクルと巻いていく。チョコクリームやチーズが流れ出ると焦げて苦くなるので、私は左右をつまんで閉じる。
③熱しておいたオーブンに入れて適当に焼く。最初に低温で焼いて、生地に火が通ったら高温にして焼くと、外側がパリッとして中がしっとりと焼き上がる、というは彼の実験結果。何度?・・・私には分かりません。多分200度から270度の間。
④焼き上がったら少し冷ます。焼き上がったばかりは、ものすごーく熱くて、チョコクリームで火傷しそうになる上、生地がまだ柔らかい。
というのが、習慣化しつつある。
ショコ・クロワッサン(Schoko-Croissant、またはSchoko-Gipfel)とは、日本でもお馴染みの(?)チョコ・クロワッサンで、フランスのパン・オ・ショコラに似ている(形は違うけど)。
私はもともとショコ・クロワッサンが好きなんだけど、
美味しいショコ・クロワッサンってなかなか出会えない。
生地がやたらと厚くて、しかも乾いてボサボサだったり、
焼き上がった上からチョコレートが掛けてあるのは、見た目は良いけど手がドロドロになって食べにくい。
そういうのに限ってチョコレートが美味しくなかったりする。
生地がさくっとしていて、チョコレートがしっとりとしていて甘すぎず、チョコレートと生地のボリュームの比率が適当なショコ・クロワッサンが私の理想。
今までに、いくつもの街のパン屋を回った結果、
これは美味しい、と言えるのは1軒だけ。
そこ、チェーン店のパン屋なんだけど、なぜか他のお店は美味しくないのに、そこだけはイケるんだな。
そんな私のショコ・クロワッサンに掛ける情熱(?)を知っている彼が、
いつからか日曜日の朝に焼いてくれるようになった。
一番初めのチャレンジでは、スーパーで売っているクロワッサンのタネに、板チョコを包んで焼いてみた。
ちょっと奮発して、板チョコはカカオ80%のノアール(ってフラ語じゃん)を買ってみたんだけど、
これはいまいちだった。
敗因は、おそらくクロワッサンのタネが塩味だったことと、板チョコに甘味が足りないこと。
二度目のチャレンジでは、やっぱりスーパーで買ってきたパイ生地にチョコクリームを包んで焼いてみた。
たまたまスーパーにクロワッサンの生地が無かったから、パイ生地を買ってきただけだったんだけど、
これが大当たり。
それ以来、週末の買い物にパイ生地はお決まりで、家にはnutella(チョコ・ナッツ・クリーム)を常備している。
最近では、半分をショコ・クロワッサンに、半分はハムやコーン、チーズを巻いて、クロワッサンを焼いてくれる(っていうか、私も手伝うけど)。
ものすごーく手軽なのに(人に作ってもらっておいてそれはひどいかもしれない)、
すごーく美味しいし、毎回気分でいろんなアレンジが利くのも楽しい。
材料:
パイ生地 1枚
チョコクリーム
他、好みでコーン缶、ツナ缶、ハム、チーズなど
作り方:
①パイ生地を広げて、包丁で切る。まず適当な大きさの長方形に等分していき、それをさらに対角線で半分に切って、最終的には直角三角形にする。
②直角三角形の一番短い底辺の部分にチョコクリームや好みの具を置き、中身を包み込むように頂点に向かってクルクルと巻いていく。チョコクリームやチーズが流れ出ると焦げて苦くなるので、私は左右をつまんで閉じる。
③熱しておいたオーブンに入れて適当に焼く。最初に低温で焼いて、生地に火が通ったら高温にして焼くと、外側がパリッとして中がしっとりと焼き上がる、というは彼の実験結果。何度?・・・私には分かりません。多分200度から270度の間。
④焼き上がったら少し冷ます。焼き上がったばかりは、ものすごーく熱くて、チョコクリームで火傷しそうになる上、生地がまだ柔らかい。
(古)本屋めぐり
私が住んでいる街には、本屋が何軒もある。
大きな本屋は2軒くらいだけど、小さな本屋がそれはもう何軒もあるのだ。
大学町なんだから本屋くらいあって当然なのかもしれない。
あるいは、大学町でなくても本屋くらい何軒もあるのかもしれない・・・。
本屋、と一言で言ってもいろいろだ。
大きな2軒の本屋のうち1軒、Rは、独自の出版活動をしていて、地域の歴史だとか文化、観光に関するローカル書を数多く出版している。
実はドイツにはこういうド田舎の町の小さなローカル出版社がすごく多い。
地域に密着した研究活動などを行う歴史・文化・社会系の研究者の力強い味方だ
売り場は当然テーマごとに分かれていて、ローカル本も一つのコーナーが設けられている。
さらに、各階の売り場に2箇所くらいソファが置いてあるのも、感じが良い。
本を眺めはじめると時間も忘れて夢中になってしまい、そのうち血圧が低いためめまいがして、頭痛が始まる私には願ってもないサービスだ。
もう一つの大きな本屋、Hは、独自の出版活動はしていないものの、入り口を入ってすぐ右手に、やはりローカル出版物のコーナーが設けられている。
街の歴史に関するもの、街や地域の写真集、農家レストランのガイドブック、ハイキングのガイドブックなど色々で、
街の古い写真ばかりを集めた写真集や、街の大聖堂の建設に関する歴史の本、街を流れる水路をめぐるガイドブックなど、誕生日のプレゼントなどにすると、外国人ばかりでなくドイツ人にも喜ばれる。
大きな本屋ができるだけ色んなジャンルの本を取り揃えているのに対して、
小さな本屋は個性で勝負だ。
大学の理系学部生の教科書や参考書の本屋、
地図や景観の写真集とガイドブックの本屋、
美術系専門の本屋
クラッシック音楽に関する本と各種学期の譜面とクラッシック音楽のCDのお店、などなど。
ちなみに本屋に雑誌は置いてない。
雑誌・新聞は駅のキオスクか、新聞の販売所に行かなければ買えない。
私の最近のお気に入りは、小説ばかりを揃えている本屋さん。
店員は中年の女性ともう少し若い男性の二人だが、
二人ともすごく親切だ。
店に入ってボォーッと棚を眺めていると必ず、
「何か決まったものをお探しですか?」
と声を掛けてくれる。
「見ているだけです、ありがとう」
と答えれば、それ以上は放っておいてくれるし、
「友達にプレゼントを探しているんだけど」
と言えば、相談にのってくれる。
「何歳くらいの人ですか?」 「男性?女性?」 「どんなタイプの人ですか?」 「その人は普段どんな本を読むんですか?」 「どんなことに興味がある人ですか?」
驚いたことに、お店に置いてある本を知り尽くしており、自分の感想を交えながら、
「これはこんな感じの本です」
とオススメしてくれるのだ。
そのプロ根性に感激である。
もう一つ見逃せないのが、同じくらいたくさんある古本屋。
路地にワゴンを並べて、NationalGeographyやMerian(国内外様々な地域の地理情報誌などのバックナンバーをワゴンセールしている。
1冊50セントで売られているのだが、時には、70年代や80年代初期の年の日本特集、中国特集などのような掘り出し物に出会える。
もともとは、友達が私の誕生日に、Merianの1972年の東京特集号をプレゼントしてくれたことだった。
東京特集号を見つけて私のために買ってくれたその気持ちがすごくうれしかった。
以来私も、通りかかるたびに山を掘り返してみる。
親しい友人達の出身地の特集号が、いつの日か見つかることを願いながら。
大きな本屋は2軒くらいだけど、小さな本屋がそれはもう何軒もあるのだ。
大学町なんだから本屋くらいあって当然なのかもしれない。
あるいは、大学町でなくても本屋くらい何軒もあるのかもしれない・・・。
本屋、と一言で言ってもいろいろだ。
大きな2軒の本屋のうち1軒、Rは、独自の出版活動をしていて、地域の歴史だとか文化、観光に関するローカル書を数多く出版している。
実はドイツにはこういうド田舎の町の小さなローカル出版社がすごく多い。
地域に密着した研究活動などを行う歴史・文化・社会系の研究者の力強い味方だ
売り場は当然テーマごとに分かれていて、ローカル本も一つのコーナーが設けられている。
さらに、各階の売り場に2箇所くらいソファが置いてあるのも、感じが良い。
本を眺めはじめると時間も忘れて夢中になってしまい、そのうち血圧が低いためめまいがして、頭痛が始まる私には願ってもないサービスだ。
もう一つの大きな本屋、Hは、独自の出版活動はしていないものの、入り口を入ってすぐ右手に、やはりローカル出版物のコーナーが設けられている。
街の歴史に関するもの、街や地域の写真集、農家レストランのガイドブック、ハイキングのガイドブックなど色々で、
街の古い写真ばかりを集めた写真集や、街の大聖堂の建設に関する歴史の本、街を流れる水路をめぐるガイドブックなど、誕生日のプレゼントなどにすると、外国人ばかりでなくドイツ人にも喜ばれる。
大きな本屋ができるだけ色んなジャンルの本を取り揃えているのに対して、
小さな本屋は個性で勝負だ。
大学の理系学部生の教科書や参考書の本屋、
地図や景観の写真集とガイドブックの本屋、
美術系専門の本屋
クラッシック音楽に関する本と各種学期の譜面とクラッシック音楽のCDのお店、などなど。
ちなみに本屋に雑誌は置いてない。
雑誌・新聞は駅のキオスクか、新聞の販売所に行かなければ買えない。
私の最近のお気に入りは、小説ばかりを揃えている本屋さん。
店員は中年の女性ともう少し若い男性の二人だが、
二人ともすごく親切だ。
店に入ってボォーッと棚を眺めていると必ず、
「何か決まったものをお探しですか?」
と声を掛けてくれる。
「見ているだけです、ありがとう」
と答えれば、それ以上は放っておいてくれるし、
「友達にプレゼントを探しているんだけど」
と言えば、相談にのってくれる。
「何歳くらいの人ですか?」 「男性?女性?」 「どんなタイプの人ですか?」 「その人は普段どんな本を読むんですか?」 「どんなことに興味がある人ですか?」
驚いたことに、お店に置いてある本を知り尽くしており、自分の感想を交えながら、
「これはこんな感じの本です」
とオススメしてくれるのだ。
そのプロ根性に感激である。
もう一つ見逃せないのが、同じくらいたくさんある古本屋。
路地にワゴンを並べて、NationalGeographyやMerian(国内外様々な地域の地理情報誌などのバックナンバーをワゴンセールしている。
1冊50セントで売られているのだが、時には、70年代や80年代初期の年の日本特集、中国特集などのような掘り出し物に出会える。
もともとは、友達が私の誕生日に、Merianの1972年の東京特集号をプレゼントしてくれたことだった。
東京特集号を見つけて私のために買ってくれたその気持ちがすごくうれしかった。
以来私も、通りかかるたびに山を掘り返してみる。
親しい友人達の出身地の特集号が、いつの日か見つかることを願いながら。
カッコーの子供達
ドイツでは父親が内密に行うDNA鑑定を規制する法律ができたらしいと、ぴぎぃさんからコメントいただいた
のですが、把握していませんでした。
インターネットで"Vaterschaftstest","Gesetz"で検索すると、Die Welt.deのサイトの記事がヒットする。これによると、B-W州は2005年4月29日に、「一定の条件下で、父親と思われる男性が内密に実施するDNA鑑定を合法と認める法律の草案を連邦議会に提出した」 らしい。
一応彼(ドイツ人)にも聞いてみると、たしかに半年ほど前に、「母親に内緒で父親が実施するDNA鑑定を禁止する法律が施行された」と言うので驚いた。
しかし、もう一度よく調べてみると、どうやら連邦法務省長官のブリギッテ・ツゥプリース氏(Brigitte Zypries、SPD)が、今年のはじめに「父親側の内密のDNA鑑定を禁止し、これに違反したものは罰する」という法律の改正を行う意向を表明した、というのが真相らしい。
この法案に対し、多くの男性や知識人、政治家が、「この法律が妻の不貞を容認することになる」と反発し、激しい議論を呼んだ(呼んでいる)。
私がカッコーの子供についての話を見聞きしたのも、父権保護を訴える動きが広まっていたせいらしい。
それもそのはず、1月に発売された雑誌Bild によると、
ドイツでは毎年、新生児の5~10%近くがカッコーの子供達(Kuckuckskinder)が生まれ、また、5万件のDNA鑑定結果のうち、20%がネガティブ(自分の子供ではなかった)であったという数字が出されている。
そして、約1万人の男性が、自分が面倒を見ている子供が本当に自分の子供であるかどうか疑念を抱えているという。
もっとも、統計の数字なんてどうにでも作り出せるから、どこまで信用していいのかは分からないが。
このような状況を受けて、B-W州では、ツゥプリース氏の意向表明に対抗して、父親の権利を保護する法案を取り入れようというのことのようだ。
ツゥプリース氏の主張は、「いくら子供と言えども、個人の情報が勝手に流出するのは違法である」という根拠に基づいているようだが、
B-W州のCDU、FDPの政治家達は逆に、「父親が、本当に自分の子供なのかどうかという疑念を抱いているのは、当の子供にとって良い環境とは言いがたい。生物学的な親子であるかどうかという根本的な疑念を解明しつつ、家族の関係も大切に保護するには、秘密裏に実施されるDNA鑑定が適している」と主張している。
「これまでに実施されたDNA鑑定の1/3以上は、実の父親であることが証明されている」というのも、この法案の根拠となっているようだ。
この法案では、父親だけではなく、母親も、また当事者である子供も一定の年齢に達すれば、秘密裏にDNA鑑定を行うことを認める内容になっている。
Die Weltの記事では、他の州がこの動きに続くのかどうかはまだ分からない、と、結ばれている。
ちなみに、DNA鑑定の費用は現在のところ、相場が200ユーロ前後で、数日で結果が出るそうだ。99.99%の正確性が保障されている 。
しかし、迅速かつ正確で秘密厳守、しかも安価なDNA鑑定を、各社が競争して提供している社会って一体、、、。
インターネットで"Vaterschaftstest","Gesetz"で検索すると、Die Welt.deのサイトの記事がヒットする。これによると、B-W州は2005年4月29日に、「一定の条件下で、父親と思われる男性が内密に実施するDNA鑑定を合法と認める法律の草案を連邦議会に提出した」 らしい。
一応彼(ドイツ人)にも聞いてみると、たしかに半年ほど前に、「母親に内緒で父親が実施するDNA鑑定を禁止する法律が施行された」と言うので驚いた。
しかし、もう一度よく調べてみると、どうやら連邦法務省長官のブリギッテ・ツゥプリース氏(Brigitte Zypries、SPD)が、今年のはじめに「父親側の内密のDNA鑑定を禁止し、これに違反したものは罰する」という法律の改正を行う意向を表明した、というのが真相らしい。
この法案に対し、多くの男性や知識人、政治家が、「この法律が妻の不貞を容認することになる」と反発し、激しい議論を呼んだ(呼んでいる)。
私がカッコーの子供についての話を見聞きしたのも、父権保護を訴える動きが広まっていたせいらしい。
それもそのはず、1月に発売された雑誌Bild によると、
ドイツでは毎年、新生児の5~10%近くがカッコーの子供達(Kuckuckskinder)が生まれ、また、5万件のDNA鑑定結果のうち、20%がネガティブ(自分の子供ではなかった)であったという数字が出されている。
そして、約1万人の男性が、自分が面倒を見ている子供が本当に自分の子供であるかどうか疑念を抱えているという。
もっとも、統計の数字なんてどうにでも作り出せるから、どこまで信用していいのかは分からないが。
このような状況を受けて、B-W州では、ツゥプリース氏の意向表明に対抗して、父親の権利を保護する法案を取り入れようというのことのようだ。
ツゥプリース氏の主張は、「いくら子供と言えども、個人の情報が勝手に流出するのは違法である」という根拠に基づいているようだが、
B-W州のCDU、FDPの政治家達は逆に、「父親が、本当に自分の子供なのかどうかという疑念を抱いているのは、当の子供にとって良い環境とは言いがたい。生物学的な親子であるかどうかという根本的な疑念を解明しつつ、家族の関係も大切に保護するには、秘密裏に実施されるDNA鑑定が適している」と主張している。
「これまでに実施されたDNA鑑定の1/3以上は、実の父親であることが証明されている」というのも、この法案の根拠となっているようだ。
この法案では、父親だけではなく、母親も、また当事者である子供も一定の年齢に達すれば、秘密裏にDNA鑑定を行うことを認める内容になっている。
Die Weltの記事では、他の州がこの動きに続くのかどうかはまだ分からない、と、結ばれている。
ちなみに、DNA鑑定の費用は現在のところ、相場が200ユーロ前後で、数日で結果が出るそうだ。99.99%の正確性が保障されている 。
しかし、迅速かつ正確で秘密厳守、しかも安価なDNA鑑定を、各社が競争して提供している社会って一体、、、。
"Ja" oder "Nein"???
londonerさんの記事で、英語の"Do you mind~?"という問いに対する返答の、YesとNoの話があった。
ドイツへ来た頃私が非常に苦労させられた会話を思い出した。
ドイツ語でも、否定形の質問に対する答え方で、肯定の場合と否定の場合の日本語との違いがある。
一つ違うのは、英語ではYesとNoの二通りなのに対して、ドイツ語には強調の肯定であるdoch(どっほ)がある。
この言葉は、疑問文の中ではじめっから否定されている事実を、強調して肯定する意味があり、つまり日本語では、否定形の疑問文に対する否定の答えに使われる(?あってるかな??)。
つまり、
「Trinkst du kein Bier? (ビール飲まないの?)」
このkeinというのが否定の不定冠詞で、英語で言うならnoだろうか・・・?
と言う問いに対して、「ううん、飲むよ!」
と答える時に、
「Doch!
(どっほ=強調のYes)
Ich trinke Bier」
と使う。
「うん、飲まないよ」 と答える時は、
「Nein(ないん=No), ich trinke kein Bier」
となる。
はじめの頃は当然、dochなんて数分考えなくては出てこないし、
ドイツ語の質問を日本語に訳して理解してから答えるという作業をしているから、
「Trinkst du kein Bier? (ビール飲まないの?)」
と言う問いに対して、「ううん、飲むよ!」と答えたくて、
「Nein<あ、違った> eh, nein,,,,eeeeh, Ja,<じゃなくって>,, aaaaaaaaa, doch!」
などと言っていた。
日本語についての知識がある人は、この答え方の違いについても良く知っているから、
「dochが自然に使えるようになれば一人前だよ♪」
と、よく言われたものだ。
しかし、これに馴染んでしまうと、日本に帰った時に、中途半端な返答をして意思の疎通につまづき、図らずも険悪な雰囲気を招いてしまったりするから要注意だ。
母 「ご飯食べないの?」
私 「ううん (食べないよ)」
母 「食べるの?」
私 「ううん」
・・・・・・・・・・・・・・。
母 「食べるの、食べないの、どっちなの??」
私 「だから『食べない』って言ってるじゃん」
ドイツへ来た頃私が非常に苦労させられた会話を思い出した。
ドイツ語でも、否定形の質問に対する答え方で、肯定の場合と否定の場合の日本語との違いがある。
一つ違うのは、英語ではYesとNoの二通りなのに対して、ドイツ語には強調の肯定であるdoch(どっほ)がある。
この言葉は、疑問文の中ではじめっから否定されている事実を、強調して肯定する意味があり、つまり日本語では、否定形の疑問文に対する否定の答えに使われる(?あってるかな??)。
つまり、
「Trinkst du kein Bier? (ビール飲まないの?)」
このkeinというのが否定の不定冠詞で、英語で言うならnoだろうか・・・?
と言う問いに対して、「ううん、飲むよ!」
と答える時に、
「Doch!
(どっほ=強調のYes)
Ich trinke Bier」
と使う。
「うん、飲まないよ」 と答える時は、
「Nein(ないん=No), ich trinke kein Bier」
となる。
はじめの頃は当然、dochなんて数分考えなくては出てこないし、
ドイツ語の質問を日本語に訳して理解してから答えるという作業をしているから、
「Trinkst du kein Bier? (ビール飲まないの?)」
と言う問いに対して、「ううん、飲むよ!」と答えたくて、
「Nein<あ、違った> eh, nein,,,,eeeeh, Ja,<じゃなくって>,, aaaaaaaaa, doch!」
などと言っていた。
日本語についての知識がある人は、この答え方の違いについても良く知っているから、
「dochが自然に使えるようになれば一人前だよ♪」
と、よく言われたものだ。
しかし、これに馴染んでしまうと、日本に帰った時に、中途半端な返答をして意思の疎通につまづき、図らずも険悪な雰囲気を招いてしまったりするから要注意だ。
母 「ご飯食べないの?」
私 「ううん (食べないよ)」
母 「食べるの?」
私 「ううん」
・・・・・・・・・・・・・・。
母 「食べるの、食べないの、どっちなの??」
私 「だから『食べない』って言ってるじゃん」
ユージュアル・サスペクツ (1995)
出演: スティーブン・ボールドウィン, ガブリエル・バーン 他
監督: ブライアン・シンガー
伏線が縦横に敷き詰められた綿密な脚本を、無駄なくテンポ良く映像化している。
よくできている映画なのに、意外に知られていないのが不思議だ。
アメリカ映画の割にはお金をあまり掛けていないからなのか?
まだまだ無名に近かった監督や出演者達の出世作という印象を受けるが、
出演者は皆、一癖ありそうなチンピラを演じきっていて見応えがある。
劇場で公開されたことはまったく記憶に無いから、当時もあまり注目されなかったのかもしれない。
ラストは、クラッシックな定番の大どんでん返し。
この映画で初めてケヴィン・スペイシーを観た。
衝撃的だった。
なんてすごい役者なんだろうと思った。
スターのオーラを発散する映画俳優は数多くいるが、
ここまで存在感を薄くして、存在自体を否定し、偽ることのできる役者がどれだけいるだろう。
ケヴィン・スペイシーはこの映画でアカデミー賞助演男優賞を受賞したらしい。
監督: ブライアン・シンガー
- ジェネオン エンタテインメント
- ユージュアル・サスペクツ
伏線が縦横に敷き詰められた綿密な脚本を、無駄なくテンポ良く映像化している。
よくできている映画なのに、意外に知られていないのが不思議だ。
アメリカ映画の割にはお金をあまり掛けていないからなのか?
まだまだ無名に近かった監督や出演者達の出世作という印象を受けるが、
出演者は皆、一癖ありそうなチンピラを演じきっていて見応えがある。
劇場で公開されたことはまったく記憶に無いから、当時もあまり注目されなかったのかもしれない。
ラストは、クラッシックな定番の大どんでん返し。
この映画で初めてケヴィン・スペイシーを観た。
衝撃的だった。
なんてすごい役者なんだろうと思った。
スターのオーラを発散する映画俳優は数多くいるが、
ここまで存在感を薄くして、存在自体を否定し、偽ることのできる役者がどれだけいるだろう。
ケヴィン・スペイシーはこの映画でアカデミー賞助演男優賞を受賞したらしい。
ドイツと日本、最近の結婚・出産事情
できちゃった結婚
なんていう言葉が市民権を得る背景には、
それだけ社会が、未婚のカップルの妊娠・出産という事柄にオープンになった、という面と
まだまだタブー視する人々・世代が社会の中心を形成しているという面を象徴しているような気がする。
「できちゃった結婚」が増加しているのは、日本だけの話ではない。
ドイツでは、子供ができたから結婚した/一緒に住み始めた、なんていうのはもう普通の話しだし、
同棲しているパートナーとの間に子供ができた/いる、なんて話も特に珍しくもない。
でも、ドイツ語では「できちゃった結婚」に値する新語が見当たらない。
少子化は重大な社会問題として常に話題に上るけど、
婚外出産や未婚カップルの同居などは、わざわざ取り上げる人が居ない。
聞いた話では、ドイツでは離婚がものすごく大変らしい。
詳しいことは分からないが、
結婚生活中に築いたすべての財産を等分し、
子供がいる場合は養育権を片方が持ち、
月々の養育費が決められると、支払い義務のある方の給料から自動的に差し引かれる等等、
手続きを踏むのも、その後の生活もなかなか大変らしい。
これが、若者の結婚に歯止めをかける結果となった。
さらに、以前のドイツは日本とよく似た保守的な社会で、
結婚していないカップルの同居はタブーであり、
婚外出産の子供には養育費や相続権などで不利な面が多かった。
世界のほとんどの先進諸国で、60年代くらいから出生率の低下が取りざたされるようになったが、
ドイツでは80年代、90年代に入って、
子供に対する法的差別が、少子化を進行させる要因になっていると、
社会で大きく批判され、ディスカッションが重ねられた結果、
婚姻関係外の子供にも、同等の権利が認められるようになったらしい。
もっとも、ドイツは西・中央ヨーロッパの中では出生率が最低レベルで、
日本と大差ないところを見ると、
この政策が功を奏したのかどうかは不明だけど。
そう言えば、ちょっと前に、ありゃ~さんのブログで、国際結婚して子供ももうけたものの上手くいかなかったカップルの、子供をめぐったトラブルについての記事 があった。
ドイツでも似たような話を耳にすることがある。
日本人マニアな男たち と互角に渡り合う、
はじめっから滞在許可と生活費狙いで、ドイツ人と結婚し子供を作って離婚する日本人女性の話などは、結構あるものだ。
ドイツでも、離婚した場合、子供は母親に育てられることが多く、
父親に収入がある場合は、一定額の養育費が法的に給料から差し引かれ、
子供を養育する母親に渡される。
これは、未婚のカップルが別れた場合も同じだ。
子供の父親であると本人が認めている以上は、養育義務があり、
収入がある以上は養育費の支払いが求められる。
どんな状況で生まれた子供も平等に養育される権利を有するべきであるという、
理論に裏づけされていて、これが社会国家ドイツの良いところであるわけだけど、
光が当たるところがあれば、影になる部分も当然出てくるのは仕方の無いことなんだろうか。
そんな、ありえない女達は当然ドイツにもいる。
日本でもたまに居るけれど、ドイツにも、
「旦那は要らないけど子供は欲しい」
という女性が最近では結構いるらしい。
そんな女性たちが、
知り合いの男性や友人を酔わせて関係を持つ、
コンドームに穴を開けておく、
などという手段を使って、一方的に子供を作ってしまうというトラブルが実際に起きているという。
そんな、罠にはまった男性の方には悲惨とも言える運命が待っている。
ある日突然、妊娠宣言をされ、動揺しているうちに認知をさせられる。
出産後、子供には全然会わせてもらえないのに、養育費だけを払わされているというケースも後を絶たないとか。
パートナーが出産したけど、本当に自分の子であるのか疑わしいと、DNA鑑定を依頼する男性も非常に多いらしい。
増えつづける需要を受けて、最近ではDNA鑑定も簡略化され、短期間で結果が出る上に、匿名で受けることもできるようになった。
%値を予測した数字は忘れてしまったけど、
本当は自分の子供じゃないのに、自分の子供だと思って育てている男性は、実は結構多いらしい。
ちなみに、こういう子供をさす、「カッコーの子供」という言葉はある。
言うまでもなく、カッコーの、自分の卵を他の鳥の巣に産み落とし育てさせる習性から名付けられている。
今まで聞いた中で一番気の毒だったのは、
そんなカッコーの子供を養育することになった男性の話。
その男性が、以前一緒に住んでいた女性が同居している時に妊娠・出産した。
当時は自分の子供だと思って一緒に育てていくつもりだったが、その後彼女とは別れることになった。
さらに、その子供は実は彼女が浮気してできた子供だった、ということが後で判明した。
男性側は、自分の子供でない以上、養育費を支払う必要なし、と、裁判所に持ち込んだ。
しかし、結果は男性側の全面敗訴だった。
「当時は子供の母親との間にパートナー関係があり、自分の子供として認知して養育するつもりがあったのだから、本当の父親が養育を申し出るまでは、養育費を分担する義務がある」という判断が下った。
相手の女性は本当の父親の名前を明かさない(もしかしたら分からないのかも)。
だから彼は、子供が少なくとも18歳になるまでは養育費を支払いつづけなくてはならない。
ドイツでも日本でも、一般的に女性の方が就業条件が悪かったり給料が安かったりするから、
子供を保護する意味で養育費の取立てが厳しいのは基本的に良い事だとは思うけれど、
どんなに素晴らしい制度でも悪用する人は必ずいて、
そのためにシングルマザーや離婚家庭を十羽一絡げに悪く言う人もまた必ずいるものだ。
どんな形であるにせよ、罪なき当事者となってしまった子供の幸せを一番に考えて欲しいと願うばかり。
なんていう言葉が市民権を得る背景には、
それだけ社会が、未婚のカップルの妊娠・出産という事柄にオープンになった、という面と
まだまだタブー視する人々・世代が社会の中心を形成しているという面を象徴しているような気がする。
「できちゃった結婚」が増加しているのは、日本だけの話ではない。
ドイツでは、子供ができたから結婚した/一緒に住み始めた、なんていうのはもう普通の話しだし、
同棲しているパートナーとの間に子供ができた/いる、なんて話も特に珍しくもない。
でも、ドイツ語では「できちゃった結婚」に値する新語が見当たらない。
少子化は重大な社会問題として常に話題に上るけど、
婚外出産や未婚カップルの同居などは、わざわざ取り上げる人が居ない。
聞いた話では、ドイツでは離婚がものすごく大変らしい。
詳しいことは分からないが、
結婚生活中に築いたすべての財産を等分し、
子供がいる場合は養育権を片方が持ち、
月々の養育費が決められると、支払い義務のある方の給料から自動的に差し引かれる等等、
手続きを踏むのも、その後の生活もなかなか大変らしい。
これが、若者の結婚に歯止めをかける結果となった。
さらに、以前のドイツは日本とよく似た保守的な社会で、
結婚していないカップルの同居はタブーであり、
婚外出産の子供には養育費や相続権などで不利な面が多かった。
世界のほとんどの先進諸国で、60年代くらいから出生率の低下が取りざたされるようになったが、
ドイツでは80年代、90年代に入って、
子供に対する法的差別が、少子化を進行させる要因になっていると、
社会で大きく批判され、ディスカッションが重ねられた結果、
婚姻関係外の子供にも、同等の権利が認められるようになったらしい。
もっとも、ドイツは西・中央ヨーロッパの中では出生率が最低レベルで、
日本と大差ないところを見ると、
この政策が功を奏したのかどうかは不明だけど。
そう言えば、ちょっと前に、ありゃ~さんのブログで、国際結婚して子供ももうけたものの上手くいかなかったカップルの、子供をめぐったトラブルについての記事 があった。
ドイツでも似たような話を耳にすることがある。
日本人マニアな男たち と互角に渡り合う、
はじめっから滞在許可と生活費狙いで、ドイツ人と結婚し子供を作って離婚する日本人女性の話などは、結構あるものだ。
ドイツでも、離婚した場合、子供は母親に育てられることが多く、
父親に収入がある場合は、一定額の養育費が法的に給料から差し引かれ、
子供を養育する母親に渡される。
これは、未婚のカップルが別れた場合も同じだ。
子供の父親であると本人が認めている以上は、養育義務があり、
収入がある以上は養育費の支払いが求められる。
どんな状況で生まれた子供も平等に養育される権利を有するべきであるという、
理論に裏づけされていて、これが社会国家ドイツの良いところであるわけだけど、
光が当たるところがあれば、影になる部分も当然出てくるのは仕方の無いことなんだろうか。
そんな、ありえない女達は当然ドイツにもいる。
日本でもたまに居るけれど、ドイツにも、
「旦那は要らないけど子供は欲しい」
という女性が最近では結構いるらしい。
そんな女性たちが、
知り合いの男性や友人を酔わせて関係を持つ、
コンドームに穴を開けておく、
などという手段を使って、一方的に子供を作ってしまうというトラブルが実際に起きているという。
そんな、罠にはまった男性の方には悲惨とも言える運命が待っている。
ある日突然、妊娠宣言をされ、動揺しているうちに認知をさせられる。
出産後、子供には全然会わせてもらえないのに、養育費だけを払わされているというケースも後を絶たないとか。
パートナーが出産したけど、本当に自分の子であるのか疑わしいと、DNA鑑定を依頼する男性も非常に多いらしい。
増えつづける需要を受けて、最近ではDNA鑑定も簡略化され、短期間で結果が出る上に、匿名で受けることもできるようになった。
%値を予測した数字は忘れてしまったけど、
本当は自分の子供じゃないのに、自分の子供だと思って育てている男性は、実は結構多いらしい。
ちなみに、こういう子供をさす、「カッコーの子供」という言葉はある。
言うまでもなく、カッコーの、自分の卵を他の鳥の巣に産み落とし育てさせる習性から名付けられている。
今まで聞いた中で一番気の毒だったのは、
そんなカッコーの子供を養育することになった男性の話。
その男性が、以前一緒に住んでいた女性が同居している時に妊娠・出産した。
当時は自分の子供だと思って一緒に育てていくつもりだったが、その後彼女とは別れることになった。
さらに、その子供は実は彼女が浮気してできた子供だった、ということが後で判明した。
男性側は、自分の子供でない以上、養育費を支払う必要なし、と、裁判所に持ち込んだ。
しかし、結果は男性側の全面敗訴だった。
「当時は子供の母親との間にパートナー関係があり、自分の子供として認知して養育するつもりがあったのだから、本当の父親が養育を申し出るまでは、養育費を分担する義務がある」という判断が下った。
相手の女性は本当の父親の名前を明かさない(もしかしたら分からないのかも)。
だから彼は、子供が少なくとも18歳になるまでは養育費を支払いつづけなくてはならない。
ドイツでも日本でも、一般的に女性の方が就業条件が悪かったり給料が安かったりするから、
子供を保護する意味で養育費の取立てが厳しいのは基本的に良い事だとは思うけれど、
どんなに素晴らしい制度でも悪用する人は必ずいて、
そのためにシングルマザーや離婚家庭を十羽一絡げに悪く言う人もまた必ずいるものだ。
どんな形であるにせよ、罪なき当事者となってしまった子供の幸せを一番に考えて欲しいと願うばかり。
研究室での仕事(?)
なんだか自分でもよく分からない展開
のうちに、研究室で働くことになった。
語学がだめだから、働きながら言葉を覚えるのが目的あるため、子守り役のGがオフィスに居ることを確認してから出かけていく。
どっちにしても、オフィスのカギはGが持っているので、彼が居なければオフィスに入ることは出来なかった。
午前中は学期休み中に実施される大学の語学講座を取っていたので、
毎日午後になると研究室のオフィスへ行く。
仕事1.インターネットで資料を探す。
辞書で調べても分からない専門用語がたくさんあるので、Gに説明してもらう。
説明してもらっていると、また分からない専門用語や概念にぶつかるので、その説明もしてもらう。
そんな感じで、いつまでもいつまでも教えてもらっていると、気がつけば1時間、2時間が経っている。
仕事2.メールを書いて資料の請求をする。
スタンダードな書き方が分からないので、請求したい内容を書き出して、Gに文章を組み立ててもらう。
一度書いてもらえばそれをもとに内容だけ変えて自分でアレンジできるが、
名詞の性別、定冠詞・不定冠詞、形容詞の末尾変化などがあるので必ず最後にチェックしてもらわなければならない。
仕事3.入手した資料を読む
専門用語や専門概念など、分からないことがあるので、これもまたGに説明してもらう。
以下、1と同じ。
仕事4.収集した情報をレポートに取りまとめる
メールと同じく、書いたものはすべてGにチェックしてもらう。
自分で文章を書くだけの語学力が無かったため、所々でカット&ペーストして体裁を整えようとするが、ズルはもちろんすぐに見破られる。
「ここ、丸写しでしょ?すぐ分かるよ」
その間Gは一応自分の仕事をしたり、自分の卒論を書く準備をしたりしていたんだけど、
私が居る間はほとんど手に付かなかったに違いない。
しかし、どんな時でもGは、イライラすることもなく、私が「分かった」と言うまでは、辛抱強く、時々は下手くそな絵を書きながら丁寧に説明してくれた。
一人じゃ何にもできなくて、まるで赤ちゃんみたいだった。
この頃の私は毎日、崖っぷちに立たされたような気分で、余裕がなかった。
頼る相手はいないし、
「ドイツ語ができない、私には難しすぎる」と弱音を吐くことは自分で許せなかった。
勉強ばかりで時間が無かったのも事実だけど、数少ない友達とも疎遠になっていた。
しかし後には引けない思いだったのは、私だけではなかった。
Gの親友や学友の多くはもう大学を卒業して、別の街へ行ってしまっていた。
ただでさえ寂しいところへ、研究室では新入りで他のメンバーを良く知らない。
しかも、回りは年上の研究者の先輩ばかり。
せっかくチャンスを与えられたのだから、ここで実力を発揮して認めてられて、研究室に残りたい。
孤独な思いと今までにないプレッシャーを与えられて必死だったGと、
劣等感に苛まれ自分の殻に閉じこもり、とにかくマスターコースを必死だった私の
波長が、この時期ピッタリと同調した。
語学がだめだから、働きながら言葉を覚えるのが目的あるため、子守り役のGがオフィスに居ることを確認してから出かけていく。
どっちにしても、オフィスのカギはGが持っているので、彼が居なければオフィスに入ることは出来なかった。
午前中は学期休み中に実施される大学の語学講座を取っていたので、
毎日午後になると研究室のオフィスへ行く。
仕事1.インターネットで資料を探す。
辞書で調べても分からない専門用語がたくさんあるので、Gに説明してもらう。
説明してもらっていると、また分からない専門用語や概念にぶつかるので、その説明もしてもらう。
そんな感じで、いつまでもいつまでも教えてもらっていると、気がつけば1時間、2時間が経っている。
仕事2.メールを書いて資料の請求をする。
スタンダードな書き方が分からないので、請求したい内容を書き出して、Gに文章を組み立ててもらう。
一度書いてもらえばそれをもとに内容だけ変えて自分でアレンジできるが、
名詞の性別、定冠詞・不定冠詞、形容詞の末尾変化などがあるので必ず最後にチェックしてもらわなければならない。
仕事3.入手した資料を読む
専門用語や専門概念など、分からないことがあるので、これもまたGに説明してもらう。
以下、1と同じ。
仕事4.収集した情報をレポートに取りまとめる
メールと同じく、書いたものはすべてGにチェックしてもらう。
自分で文章を書くだけの語学力が無かったため、所々でカット&ペーストして体裁を整えようとするが、ズルはもちろんすぐに見破られる。
「ここ、丸写しでしょ?すぐ分かるよ」
その間Gは一応自分の仕事をしたり、自分の卒論を書く準備をしたりしていたんだけど、
私が居る間はほとんど手に付かなかったに違いない。
しかし、どんな時でもGは、イライラすることもなく、私が「分かった」と言うまでは、辛抱強く、時々は下手くそな絵を書きながら丁寧に説明してくれた。
一人じゃ何にもできなくて、まるで赤ちゃんみたいだった。
この頃の私は毎日、崖っぷちに立たされたような気分で、余裕がなかった。
頼る相手はいないし、
「ドイツ語ができない、私には難しすぎる」と弱音を吐くことは自分で許せなかった。
勉強ばかりで時間が無かったのも事実だけど、数少ない友達とも疎遠になっていた。
しかし後には引けない思いだったのは、私だけではなかった。
Gの親友や学友の多くはもう大学を卒業して、別の街へ行ってしまっていた。
ただでさえ寂しいところへ、研究室では新入りで他のメンバーを良く知らない。
しかも、回りは年上の研究者の先輩ばかり。
せっかくチャンスを与えられたのだから、ここで実力を発揮して認めてられて、研究室に残りたい。
孤独な思いと今までにないプレッシャーを与えられて必死だったGと、
劣等感に苛まれ自分の殻に閉じこもり、とにかくマスターコースを必死だった私の
波長が、この時期ピッタリと同調した。
研究室で働く
出会い
編より続く
「ドイツ語の勉強にもなるから、どっかの研究室で働いてみなさい。でも私のところの研究室にはそんな余裕無いから、他に聞いてみてあげるよ」
という 親切な(?)O教授の手回しで、とある研究室に面接に行った私は、
その教授との短いやり取りの中で、煙たがられていることを感じ取ってさらに深く落ち込んでいった。
にも関わらず、その研究室のアシスタントから、
「うちで仕事がしたければもう一度話をしよう」
というメールを受け取り、気が向かないながらもイヤイヤ出かけて行った。
研究室のアシスタントにしてみれば、他の研究室の教授に言われたので仕方なく仕事を与える羽目になったのに違いないから、良い迷惑だっただろう。
研究室の廊下で待たされている時に、一人のドイツ人の若い男の子が話し掛けてきた。
屈託の無い笑顔で私に名前と出身を聞いた彼が、Gだった。
彼は自分が2ヶ月間サマーコースでアメリカを訪れた折に日本人と知り合ったことを語り、その日本人達の名前をあげた。
海外で程度の期間過ごしたことのある人は、一様に外国人に対して親切なものだ。
言葉や文化、習慣の異なる外国での生活を体験してくれば、母国で生活している外国人に興味も湧くし、その大変さが分かるだけに親切にしたくなるのは当然といえば当然なのかもしれない。
彼もそうだった。
人懐っこそうに近づいてきて、色んなことを聞いたりしてくる。
しかし
この時の私は、正直言って彼に対して不信感を抱いていた。
日本人と交流したことがあり、喜んで近づいてくるドイツ人は「日本人マニア」である可能性もある。
それに彼は距離をやたらと詰めて近づいてくるのが、まだまだ純度の高い日本人だった私には不気味だった。
Gはまだ学部に所属する学生だった。
学部といっても、5年は掛かるディプロムで、卒業試験が終わりこれから卒論を書こうという段階にいた。
優秀な彼は、卒業試験の結果で教授達の目に止まった。
すぐにお声が掛かってバイトとして研究室入り、
つまり卒業試験を書かないうちから博士課程進学へのお試し期間ということで、研究室の一室を与えられたのだった。
ずいぶん後になって彼から聞かされたのだが、そのバイトの話の中で、研究室のアシスタントから
「日本人のマスターの学生が居るんだけど、チューターとして面倒みる気はないか?」
と打診され、引き受けたそうである。
とにかく、この日から私とGはこの研究室の一部屋を与えられ、一緒に数時間を過ごすことになった。
私の仕事は、環境に関するNGOのとある分野の活動内容を調べ、比較して、最終的にこの町で似たような活動をしているNGOの代表者にインタビューしてくる、というものだった。
そのためには、インターネットを使って情報を集め、とりまとめ、レポートを作成しなければならない。
しかし、この時の私は、まだドイツ語で書かれた文章を読むだけで息も切れ切れ、概要をまとめて自分で文章を書くなんて、とんでもないことだった。
それでも一生懸命PCに向かってキーボードを叩いていると、私の背中が見えるように置かれている机に向かっているGが素っ頓狂な声を上げた。
「すごいな、君は、5本全部の指でキーボードが打てるんだ!」
えぇぇぇぇぇぇぇ?今なんて??
私の聞き間違いだろうか、と思いながら彼の手元を見ると、
なんと、Gは両手の人差し指だけでキーボードを打っている。
そう言えば、ゲーテ・インスティチュートで出会ったフィリピン人の友達は、Shiftキー以外は右手の人差し指一本で打っていたっけ・・・。
しかし彼女は私よりいくつか年上で、Gは私よりも5歳も年下じゃないか。
ドイツへ来てまだ1年にもなっていないこの頃、まだ「ドイツ男=マッチョー 」論から抜け出せていなかった私の中で、文明開化されていない野蛮なマッチョードイツ男のイメージがさらに輪郭を濃くしていた。
「ドイツ語の勉強にもなるから、どっかの研究室で働いてみなさい。でも私のところの研究室にはそんな余裕無いから、他に聞いてみてあげるよ」
という 親切な(?)O教授の手回しで、とある研究室に面接に行った私は、
その教授との短いやり取りの中で、煙たがられていることを感じ取ってさらに深く落ち込んでいった。
にも関わらず、その研究室のアシスタントから、
「うちで仕事がしたければもう一度話をしよう」
というメールを受け取り、気が向かないながらもイヤイヤ出かけて行った。
研究室のアシスタントにしてみれば、他の研究室の教授に言われたので仕方なく仕事を与える羽目になったのに違いないから、良い迷惑だっただろう。
研究室の廊下で待たされている時に、一人のドイツ人の若い男の子が話し掛けてきた。
屈託の無い笑顔で私に名前と出身を聞いた彼が、Gだった。
彼は自分が2ヶ月間サマーコースでアメリカを訪れた折に日本人と知り合ったことを語り、その日本人達の名前をあげた。
海外で程度の期間過ごしたことのある人は、一様に外国人に対して親切なものだ。
言葉や文化、習慣の異なる外国での生活を体験してくれば、母国で生活している外国人に興味も湧くし、その大変さが分かるだけに親切にしたくなるのは当然といえば当然なのかもしれない。
彼もそうだった。
人懐っこそうに近づいてきて、色んなことを聞いたりしてくる。
しかし
この時の私は、正直言って彼に対して不信感を抱いていた。
日本人と交流したことがあり、喜んで近づいてくるドイツ人は「日本人マニア」である可能性もある。
それに彼は距離をやたらと詰めて近づいてくるのが、まだまだ純度の高い日本人だった私には不気味だった。
Gはまだ学部に所属する学生だった。
学部といっても、5年は掛かるディプロムで、卒業試験が終わりこれから卒論を書こうという段階にいた。
優秀な彼は、卒業試験の結果で教授達の目に止まった。
すぐにお声が掛かってバイトとして研究室入り、
つまり卒業試験を書かないうちから博士課程進学へのお試し期間ということで、研究室の一室を与えられたのだった。
ずいぶん後になって彼から聞かされたのだが、そのバイトの話の中で、研究室のアシスタントから
「日本人のマスターの学生が居るんだけど、チューターとして面倒みる気はないか?」
と打診され、引き受けたそうである。
とにかく、この日から私とGはこの研究室の一部屋を与えられ、一緒に数時間を過ごすことになった。
私の仕事は、環境に関するNGOのとある分野の活動内容を調べ、比較して、最終的にこの町で似たような活動をしているNGOの代表者にインタビューしてくる、というものだった。
そのためには、インターネットを使って情報を集め、とりまとめ、レポートを作成しなければならない。
しかし、この時の私は、まだドイツ語で書かれた文章を読むだけで息も切れ切れ、概要をまとめて自分で文章を書くなんて、とんでもないことだった。
それでも一生懸命PCに向かってキーボードを叩いていると、私の背中が見えるように置かれている机に向かっているGが素っ頓狂な声を上げた。
「すごいな、君は、5本全部の指でキーボードが打てるんだ!」
えぇぇぇぇぇぇぇ?今なんて??
私の聞き間違いだろうか、と思いながら彼の手元を見ると、
なんと、Gは両手の人差し指だけでキーボードを打っている。
そう言えば、ゲーテ・インスティチュートで出会ったフィリピン人の友達は、Shiftキー以外は右手の人差し指一本で打っていたっけ・・・。
しかし彼女は私よりいくつか年上で、Gは私よりも5歳も年下じゃないか。
ドイツへ来てまだ1年にもなっていないこの頃、まだ「ドイツ男=マッチョー 」論から抜け出せていなかった私の中で、文明開化されていない野蛮なマッチョードイツ男のイメージがさらに輪郭を濃くしていた。
にじり寄る人、後ずさりする人
もうずいぶん以前のことだけど、何かで読んだことがある。
日本人が初対面の人やあまり親しくない人に対して取る距離を、測って統計を取った研究者がいたらしい。
その間隔、90cm。だったように記憶している。
つまり、初対面の人や特に親しくない人と話をする時に、その人と自分の間に自然に確保する物理的な距離が、平均的に90cm前後。
初対面の人間にこれ以上近づかれると、日本人の多くは恐怖、あるいは居心地の悪さを感じ、
また距離がこれ以上離れていると、相手の印象が良くない、やっぱり居心地が悪いと感じる人が多いらしい。
この、人との距離の取り方が、国によって文化によって違うということに、ドイツへ来て気がついた。
ドイツ人は、日本人よりも距離を詰めてくる。
いまだにはっきり覚えている。
ドイツ人や欧米人の知り合いが増えてきた頃だった。
知り合ったばかりのドイツ人がすぐ目の前に立って笑い掛け、じっと目を見つめて話し掛けてくるのが、どうにも居心地が悪く、一歩後ろに退いた。
すると彼は表情一つ変えずに一歩、私に近づいてくる。
彼にとっては話づらい距離だったのだろう。
居心地の悪さに私はまた一歩退く、するとまた彼が一歩近づいてくる。
そんなことを延々と繰り返しているうちに、私の後ろに壁が迫り、退くスペースがなくなってしまった、なんていう冗談みたいな本当の話だ。
こんな話をあるとき日本人の友達に話した。
すると彼女も面白い話を教えてくれた。
彼女の語学学校のクラスには、アラブ系の男の人が居た。
彼女はそのクラスメートと仲が良くて、よくおしゃべりをしたりしていたのだけど、
一つだけ、困ったことがあった。
それは、彼がやたらと距離を詰めて近づいてくることだった。
彼に下心があるわけではなかった。
それは彼女も良く分かっている。
アラブ系の人は、なぜか体臭がきつい人が多い。
そんな彼に思いっきり近づかれて、思わず息を止めてしまう彼女。
それでも「臭いからもっと離れてよ」なんて言えない心優しい彼女がいつしか知ったこと。
アラブの世界では、相手の体臭が届く距離が、親しい友人同士の適度な間隔らしい。
でも、日本人はアラブ系の人々と違って「臭わない」。
アラブ系の彼にしてみれば、「相手の臭いがしないと落ち着かない」ので、もっと近づいてしまう・・・。
さて、日本人とドイツ人の距離の取り方、ここからは私の想像だけど、
私達日本人は、初対面の人やよく知らない人には気を使って丁寧に接するし、お辞儀をする。
だから、お互いお辞儀をしても頭がぶつからないくらいの距離をあけている。
それに対してドイツ人は、挨拶としてよく握手をする。
Sieを使う敬語同士の間柄だけではなく、10数年来の友達同士でも、若い子同士でも握手をする人が結構いる。
だから、すぐに手が届くくらいの距離を取るのだろう。
ちなみに、Hugや頬にキスをする人達もいるけれど、これはそもそもはドイツ人の習慣ではなかったらしい。
家族の間ではもちろんHugやキスは当たり前だけど、友達ともするのは若い世代が中心だ。
「外国の習慣だけど、女の子とHugしたりキスしたりできるのはうれしいからするんだ」
と堂々と公言する人も、私の周りには多い(笑
日本人が初対面の人やあまり親しくない人に対して取る距離を、測って統計を取った研究者がいたらしい。
その間隔、90cm。だったように記憶している。
つまり、初対面の人や特に親しくない人と話をする時に、その人と自分の間に自然に確保する物理的な距離が、平均的に90cm前後。
初対面の人間にこれ以上近づかれると、日本人の多くは恐怖、あるいは居心地の悪さを感じ、
また距離がこれ以上離れていると、相手の印象が良くない、やっぱり居心地が悪いと感じる人が多いらしい。
この、人との距離の取り方が、国によって文化によって違うということに、ドイツへ来て気がついた。
ドイツ人は、日本人よりも距離を詰めてくる。
いまだにはっきり覚えている。
ドイツ人や欧米人の知り合いが増えてきた頃だった。
知り合ったばかりのドイツ人がすぐ目の前に立って笑い掛け、じっと目を見つめて話し掛けてくるのが、どうにも居心地が悪く、一歩後ろに退いた。
すると彼は表情一つ変えずに一歩、私に近づいてくる。
彼にとっては話づらい距離だったのだろう。
居心地の悪さに私はまた一歩退く、するとまた彼が一歩近づいてくる。
そんなことを延々と繰り返しているうちに、私の後ろに壁が迫り、退くスペースがなくなってしまった、なんていう冗談みたいな本当の話だ。
こんな話をあるとき日本人の友達に話した。
すると彼女も面白い話を教えてくれた。
彼女の語学学校のクラスには、アラブ系の男の人が居た。
彼女はそのクラスメートと仲が良くて、よくおしゃべりをしたりしていたのだけど、
一つだけ、困ったことがあった。
それは、彼がやたらと距離を詰めて近づいてくることだった。
彼に下心があるわけではなかった。
それは彼女も良く分かっている。
アラブ系の人は、なぜか体臭がきつい人が多い。
そんな彼に思いっきり近づかれて、思わず息を止めてしまう彼女。
それでも「臭いからもっと離れてよ」なんて言えない心優しい彼女がいつしか知ったこと。
アラブの世界では、相手の体臭が届く距離が、親しい友人同士の適度な間隔らしい。
でも、日本人はアラブ系の人々と違って「臭わない」。
アラブ系の彼にしてみれば、「相手の臭いがしないと落ち着かない」ので、もっと近づいてしまう・・・。
さて、日本人とドイツ人の距離の取り方、ここからは私の想像だけど、
私達日本人は、初対面の人やよく知らない人には気を使って丁寧に接するし、お辞儀をする。
だから、お互いお辞儀をしても頭がぶつからないくらいの距離をあけている。
それに対してドイツ人は、挨拶としてよく握手をする。
Sieを使う敬語同士の間柄だけではなく、10数年来の友達同士でも、若い子同士でも握手をする人が結構いる。
だから、すぐに手が届くくらいの距離を取るのだろう。
ちなみに、Hugや頬にキスをする人達もいるけれど、これはそもそもはドイツ人の習慣ではなかったらしい。
家族の間ではもちろんHugやキスは当たり前だけど、友達ともするのは若い世代が中心だ。
「外国の習慣だけど、女の子とHugしたりキスしたりできるのはうれしいからするんだ」
と堂々と公言する人も、私の周りには多い(笑